段々色ブログ

障害者アートギャラリー店主の気まぐれ帳

「障害者」は差別用語か?

騒ぐイマジネーション 障がいのある作家展

障がいのある作家展

金沢市の百貨店・金沢エムザで「障がいのある作家展」という展覧会を毎年開催している。初回の企画について打ち合わせをしていた時の事だ。こちらは「障害者アート展」などのタイトルで実施したいと提案した。しかし百貨店美術画廊サイドの意見は、「別の表現にならないか。障害者という言葉が少し気になる」というものだった。

 

では「アウトサイダーアート展」「アールブリュット展」などではどうでしょう?と聞くと、先方は困ってしまった。こんな言葉は、一般の人にはわからないからだ。

結果として、「障害」は「障がい」にする。企画協力に当ギャラリーの名前を入れて、一切の苦情は私が対応するという形で合意した。またサブタイトルを付けて「障がい」が和らぐ工夫も加え、最終的に「騒ぐイマジネーション 障がいのある作家展」に決まった。

 

この後、石川県神経科精神科医会に後援依頼の手紙を書いた。「障害者の地位向上の目的で展覧会を開催する。しかし「障害者」という言葉を差別用語ととらえている人が一定数いる。ついては権威のある石川県神経科精神科医会様に後援についていただき、後ろ盾になっていただけないだろうか」ということを伝えた。

幸いご理解をいただき、本年の4回目までずっとご後援をいただいている。この場を借りて御礼申し上げたい。

 

「害」

「障害者の『害』が問題なのです。害虫と同じなのですよ。障害児から『私は害虫と同じなの?』と聞かれたことがあるのです」ある教育現場にいる方からこのように言われたことがある。

障害者アートギャラリーを始めて5年。いくつかの苦情・苦言を聞いてきた。大体が「障害者」という言葉についてだ。「障害者」は差別用語であるという指摘や、障害者の「害」という一字を問題視したものがほとんどだ。他にも障害者の絵を売ること自体を問題視したものもあったが、これは次の機会に話すことにしたい。

 

「害」を避けて「障碍者」「障がい者」と別の字を書くケースが増えている。でも発音は「しょうがいしゃ」であって、「害」の字は消えてもこれで解決になっているのか首をかしげる。

 

さてここで、この記事のタイトル「障害者は差別用語か?」の答えを書いておきたいと思う。 

「障害者」は差別用語ではない。(不快に思うかどうかの話ではなく、あくまで差別用語かどうかの話である)

 

理由は簡単だ。「障害者基本法」という法律がある。条文を見ても、一片のためらいもなく「障害者」という文字が続いていく。このように今現在、国の法律に使用されている言葉が差別用語であろうはずがないのである。

 

差別用語とは何なのか

ここで差別用語についてWikipediaで調べてみる。(以下引用)

「差別用語とは、他者の人格を個人的にも集団的にも傷つけ、蔑み、社会的に排除し、侮蔑・抹殺する暴力性のある言葉。使用したことにより、名誉毀損罪など、法的に損害賠償責任が発生する可能性が高い言葉であり、公の場で使うべきでない言葉の総称である」

同じようなものに「放送禁止用語」がある。かいつまんで言うと「マスメディアが差別用語として使用を禁止している言葉で、放送事業者の自主規制によるもの」だそうだ。

ちなみに、ほとんどのマスコミは自主規制せず「障害者」と表記している。

 

「八百屋」は差別用語

では、具体的にどんな言葉が差別用語になるのかをネットで調べてみたところ、おもしろい例が書いてあった(正式な「差別用語一覧」のようなものは見当たらず、どこまで本当かはわからないが)。

「看護婦」はダメで「看護師」と言う。これはもう普通になったかもしれない。「外人」は「外国人」と言う。なるほど、そうなのか。よくわからないが、口をはさむのはやめる。

「おまわり」は「おまわりさん」と言う。これは差別用語と言うより敬語の話ではないかと思う。そもそも警察官を差別する人はいるのだろうか。

そして驚くなかれ「八百屋」「魚屋」「パン屋」など最後に「屋」が付くのは差別用語になると言うのだ。理由は、商店やサービス業などの日銭が入る職業を軽蔑するような用い方だからとのことだ(日銭の何が悪いのか?)。ただ、「おまわりさん」の例にもあったとおり、後ろに「さん」を付ければ差別用語ではなくなるらしい。「八百屋さん」、「魚屋さん」ならよい。

 

差別をなくすために努力をしている人たちを私は尊敬する。しかし、主戦場から離れた場所で陣を構える人もいる。いったい何と戦っているのだ?

 

言葉が問題ではない

差別がない世の中になればいいと私も本気で思う。でも言葉を換えれば済むとは思わない。一部は変わるかもしれないが、あくまでも一部だ。少し整理して考えてみる。

 

『「障害者という言葉」を使って「人を差別する」のは良くない』というのが主題の構造だ。この構文を別の例に変換してみる。

『「包丁」を使って「人を傷つける」のは良くない』

 

下の文の核心は「人を傷つけるのは良くない」のであって「包丁」そのものが悪いわけではない。同じように上の文は「人を差別するのは良くない」のであって、「障害者という言葉」そのものだけを問題視しても解決しない。他の言葉でも差別はできる。

 

例えば法律が変わり、「障害者」を「エンジェル」と呼ぶようになったとする。どうなるだろうか。「やーい、エンジェル!」と、エンジェルが差別用語になるだけではないのか。これは言葉の問題というより、話者の意識の問題ではないかと思うのである。

 

差別の意識をなくす

知人にアメリカのヒューストンで暮らした人がいる。この人の子供が通う小学校のクラスには重度の障害児がいた。クラスの子供たちは「今日は僕がジョニー(障害児)の世話をする!」と競って世話係をやるのだそうだ。

人格が形成される時期に障害児と一緒に過ごす機会がこのクラスにはあって、その子の世話をするのが尊く誇らしいことであるとみんな普通に思っている。

 

話は変わって我が家の体験だ。

障害者である娘を家内が通所施設に車で送り迎えをしていた。帰ってくると、自宅の前に近所の小学生の子供たちが徒党を組んで待ち構えているのである。これには家内も閉口した。別に言葉で差別されたわけではないのだが、10人以上の子供たちに毎日ずっとわが子を凝視されるのは気持ちのいいものではない。

ヒューストンと違い、日本は健常児と障害児は最初から住み分けがされていて、健常児は障害児を見たことがないからこのようなことが起こるのではないか。

 

横浜の社会福祉法人グリーンという障害者施設では農業を行っている。ここの畑の一部は近所の保育園の園児たちに解放され、児童が障害者と一緒に畑作業を行う。とても良い取り組みだと思った。園児は土に触れる経験と障害者に接する経験をする。この子たちが大きくなっても、障害者を差別することはないのではないかと思う。このような例が増えていくことを願う。