段々色ブログ

障害者アートギャラリー店主の気まぐれ帳

「障害者を金儲けの手段にするな」

 

SNSの書き込み

2021年の「障がいのある作家展」開催直前、SNSで宣伝をしたところ、表題の「障害者を金儲けの手段にするな」という書き込みがあった。いざ論戦を、とも一瞬考えたが、さらりとコメントを削除することで終わらせた。もし返事を書くと応酬は果てしなく続いていくだろう。会期が迫っている時、こんなことに神経を使っている暇はない。

ちなみに、このコメントを書いた人は福祉施設の元職員のようだった。

 

書き込みの背景にあるもの

障害者の絵を販売する。そして障害者作家にもお金が入る。当方にすれば普通のビジネスと何ら変わらない。

もし一般のギャラリーが健常者の作家の絵を売っても、この人は「画家を金儲けの手段にするな」と言わないだろう。スーパーが野菜を売っても「生産者を金儲けの手段にするな」と言わないだろう。世の中のビジネスは大体が同じ流れで動いているのだが、障害者だけは例外になる。背景に何があるのだろうか。

 

騙している?

作家・施設との金銭トラブルは絶対に避けたいと思ってきた。だから当ギャラリーでは作品の取扱いには契約書を交わすことにしている。もちろん内容は弁護士のチェック済である。万一何かあったら、この契約書で私を訴えることができますよ、ということだ。意思表示ができない作家の場合は、作家の親もしくは施設と契約している。だから、お金の価値判断ができない障害者から絵を買い叩いたり、障害者が売りたくないのに騙して買い上げたりはできないことになっている。

もし書き込みをした人が、私が障害者を騙してビジネスをしていると想像しているなら見当違いだ。

 

作家が望んでいない?

それと、もし絵を売ることについて作家が積極的でないと思い込んでいるなら、それも勘違いだ。

まず、作家にお金の感覚がないというのは一部である。精神障害の人、身体障害の人は健常者と知的能力は同じだ。むしろどんどん売ってほしいと要望をもらっている。知的障害の人の一部はお金の価値はよくわからないかもしれないが、絵が売れるということがわかる人はいる。少なくとも私が契約している作家と所属施設、親は絵を売ることに肯定的であり(だから契約が成立している)、絵が売れると喜んでくれる。

 

清い存在でいるべき?

もしかしたら障害者をビジネスの世界に連れ込むなということかもしれない。

そもそも「金儲けは悪である」という考えが日本人の心の中にはあるようで、福祉関係者に多いように感じる。これは少し理解できる。福祉は「平等」と「公平」が原則だ。一般社会の「個性」と「競争」の原則とは異なる世界なのである。だから展覧会は開催しても絵の販売はしないという施設はいくつもある。(売るなら全員分均等に売ってくれと無茶を言われたことがある)

 

ちなみに福祉の「福」も「祉」も幸せという意味である。日本の福祉は、すべての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念で成り立っている。素晴らしい社会システムである。しかし、だからといって障害者全員が最低のライン上に一列に並んでいなければならないということはない。健常者同様、もっと上の幸せを追求してもいいはずだ。障害者を「清く」「正しく」「貧しく」あるべきと思っているとしたら、それは上から目線である。

 

障害者とお金

知人が過去に所属していた障害者施設では、健常者と障害者が共同生活をしながら仕事をしていた。毎月、障害者には決して多くない「工賃」が支払われる。工賃を受け取る日(給料日)に、ある障害者は世話役の知人に自動販売機の缶コーヒーを振舞うのだそうだ。彼は自分が稼いだお金を自動販売機に入れて、どれでも好きなものを1本選べと言う。知人はその自信に満ちた姿を見るのが嬉しく、遠慮なく奢ってもらったと言っていた。自らお金を稼ぐということは、障害者にとっても尊厳に直結することなのである。

 

お金は評価の物差し

お金の役割には、「交換手段」「価値の保存」「価値の尺度」の3つがある。物を買う手段としての役割だけではなく、物事を評価する物差しとしての機能も持っているのだ。同じコーヒーカップでも、100均のものもあれば九谷焼の4000円のものもある。質の評価は金額に表れる。

絵画作品の場合、金額は作家の実績を加味して付けられる。人気がでれば金額が上がるし、人気が下がれば金額も下がる。このような金額的な評価の中で作家の価値は定まっていく。

つまり絵の販売を金銭的な損得だけで見るのは、一面しか見ていないということなのだ。売り買いの結果以前の評価が大事なのである。

 

私は障害者作家の親御さんに「1枚売れたときからプロの画家です」と言ってきた。販売実績のある画家になるのである。作家自身もそうだが、障害者の親にとっても嬉しいことであるのは間違いない。ずっと障害のある子どもを苦労して育ててきて、その子が認められるのは誇らしくないはずがない。評価が上がればなおさらだ。

だから私は「障害者で金を儲けるな」という次元の話ではなく、大儲けする障害者作家・大スターを作りたいと思っているのである。